昭和49年02月01日 月次祭
教祖の神様、金光大神は、天地金乃神から受けた話を伝えると。それはどう言う事かと言うと、尽きぬおかげの頂けれる話を伝えると教えておられます。尽きぬおかげ尽きぬおかげ、限りなく無尽蔵に頂けれる、おかげの頂けれる話なのです。それで私はそういうおかげを頂いておる。しかも段々おかげを頂いておる。例えばお初穂でも神様から月々五百万と頂いたら、本当に五百万に近いおかげを毎月頂きます。まあだこれが六百万になるでしょう、一千万になるでしょう。
ですから二三年前の事から思いよったら、大変なおかげを頂いておるです。例えば今日の皆さんが、お供えならお供えばご覧になっても、まあだお供えしとらんとが沢山あるです。御神酒料でも後から来たのなんかお供えしとらんです。例えば果物なんか青森辺から、箱ごと送ってきておる。みかんでも何でも箱ごと。いろんなものを今日は全部、箱ごとでしたですね前の大盛り台なんか。本当に尽きぬおかげです。
ですからそういう意味でです。本当に信心も出来ませんのに、こんなおかげを頂いてでございますけれども。やはり尽きぬおかげをいただけておる。しかもこれが段々おかげをもっともっと、広がっていくだろうと、私が信心さえ間違いなく私が信心さえ、限りなく続けられていったら。だから皆さんが合楽教会に御神縁を頂いて、ちょこっとばっかりのおかげを頂いてですよ。限りのあるおかげを頂いて、金光様ちは有難いと言う様な事ではつまらんのです。
それにはね本当に例えば、ここの大坪なら大坪の信心の、どこからそれが生まれてくるかと言う事をです。我流一件本当に捨ててです。例えば親先生が赤になることに一生懸命に努めておるなら、赤になろうという事に、本気で努めなければいけません。私が青でいきよるなと言うたら、は今青になったと言うて私が青になったことを知らんなり、まだ赤のままで行きよる人があるんです。
尽きぬおかげを神様は約束して下さっておる。天地の親神様から受けられたお話というのは、そういうおかげの受けられるお話。だから教祖様は天地の親神様から受けておられるお話を嘘に曲げて、私共に伝えてはおられないという、一人ひとりそういう実証をして行かなきゃいけんです。お互いが、その実証者にならなければいけないです。だから、実証者になると言う事は、どう言う事かと言うと、私共がそれこそ願って願って止まない、限りないおかげの事なんです。
それには私の信心を、皆さんが本気で研究なさる。見習わせてもらう。そういう姿勢を、どうしてもお取りにならなければいけん。こういう事を他所で話しよったら、合楽はこの頃慢心を起こしとると言われるかも知れません。けれども事実おかげを受けておるのですから。だからこういうおかげが欠げるというか、妙賀が尽きるという言葉を使います。妙賀が尽きると言う事は、喜びが尽きると言う事です。私の心の中にいやが上にも信心の喜びが頂けておる限り、この妙賀は尽きないと思うです。
それでも人間ですからどこにお粗末があるやら、御無礼があるやら分からんのです。今朝からの御理解の中にも、どんなにおかげを受けても、神より上になるとは思うなと仰る。だから、神様よりも上に成る様な考え方。そういう考え方はいけません。そこでどういうような場合に、神よりも上になる心になるかと言うと、それは、私が、今、皆さんにお話を聞いて頂いた様な話は、まるきり私は神様に成った様なお話をしてるわけです。無尽蔵なおかげが受けられる。
その無尽蔵なおかげの世界に、私は入っておると言う事は、これは皆さんとは次元が違う。次元の違った世界。今日も私はある方に話し、神様付き合いが出来るようなおかげを頂いておると言う事。人間とも付き合わんならんばってん、神様とも付き合わんならん。忙しい所にあるわけです。そういう話を私が皆さん以外の者にしたならば、本当に合楽は今思い上がっとると言う事であろうけれどもです。私の心の中にいつもあるもの。それはより神様に喜んで頂けれる信心を頂きたい。
より神様に喜んで頂たいという一念に燃えておるのです。ですからこれは決して神より上になると言う事じゃない。ここん所をおかにゃいけません。皆さんが慎んでおるはぁあの人は謙虚だと。あの人はと言うとってもです。自分の心の中に本当に合楽教会大発展を祈って祈って止まない心。親先生のご健康を祈らなければおられない心。そういう心がです今合楽の皆さんの信心の中にあるならば、貴方のは、まあだまあだ、神より上になるといったような慢心ではなくてです。
形の上には如何に慎みを持っておっても、人間心では謙虚に見えておってもです。そういう思いの念というものが薄らいでくる。言うならば自分よがり自分中心の考え方になってくると言う事はです。すでに神より上になるという心の兆しなんです。マイホーム的なおかげではいけんのです。神様が喜んで頂くという前提としてです。親先生が喜んで頂く信心。又は合楽教会の大発展をここにご縁を頂いておる人達が、本気で祈り、願わせて頂いておるならばです。
言うておる事しておる事は、それは傲慢に見えるかも知れません。けれどもそれは神より上になると言う事ではないと言う事。それとは反対に慎み深くはい貴方のと、言うておってもです。そういう心がないただ自分だけがおかげを受けて、じっとこうしておると言った様な心で、本気で合楽教会大発展を祈る事も、出来なくなっておるなら、これは必ずそういう信心が進んでいきゃ、神より上になる事になって、それこそ妙賀が尽きてしまう事になるのです。
今日私御神前に座らせて頂いたら、その事ばかりを頂くんです。愈々寒修行も明日と明後日が、寒修行の終わりでございます。昨日一昨日の晩御祈念が終わって、ここへ座っておりましたら、御本部から電話が架かってきた。光昭からでした。おかげで寒修行も一杯させて頂いたが、あと四五日になりました。どうぞ仕上げの修行に入りたいと思いますから、今晩から入りたいと思うからよろしくお願いするとこう言う。皆さんの中にも本当に、いつもの事ですけども今年の寒修行は、日に日に熱烈さを加えてきた。
お参りも多くなってきた。まあだそれに参加する事も出来ないでおる人達は、後二日でも、三日でも、今夜は一つ、泊まってから、明日の、寒修行でも頂こうというくらいな気持ちでです。修行の真似方でもさせてもらわなければいけません。いわば合楽と共に信心を進めて行きよらなければ駄目です。私がおかげを頂ききらずに、是が真の信心ばい是がほんなこつばいと言うておったんでは、皆さんが信じる事が出来ないでしょうけれども。私が事実の上にです。
一切人間の幸せの条件のすべてをです。それは雛形なりではあるけれども、それを頂いて、しかもそれが段々末広におかげを頂いておると言う事です。ですからそういう信心とは、どういう信心をさせて頂かんならんか、いや親先生のどこからあれが生まれてくるかと言う事をです。今度の寒修行に入って、末永先生が本気で親先生の信心を、見る事見る事、見抜く事だと、昨日三十一日の御礼信話会の時に発表しておりました。私の信心をそれは人間ですから、どう言う所でもありましょう。
けれどもああいうろくそうな事を言いござる、しござるという中にあってもです。あれでもおかげ頂よりなさるなら、真意というものは心の状態というものは、どういう状態であろうかというふうにです。分かっておい出らにゃ出来ん。形の悪かとだけ見習うたっちゃ出来ん。寒修行の明けには必ず、茶粥会を致します。今度はまぁだ皆さんに発表してませんけれども、塗板に書いてあるでしょうか。今度は支部の方達に、久留米支部の佐田さん、それから大分支部の綾部さん。
それこそ一家を挙げてこの寒修行に取り組まれた方達ばっかりですし。特に綾部さんなんかは、それからもう久しくなりますけれども、断食修行も続けておられます。ですから最後に信徒会長の挨拶をして頂く積りでおります、三日の朝は。ですからその後にいつもここでは茶粥の会を開きます。あれは私共が愈々それこそ、一碗のお食事にも、事欠いたという時代のことを忘れないために、私は合楽教会のある限りは二食ぞと。合楽教会が二食だから修行にゃ行きゃきらんと言う人があるくらいですけれども。
是だけは一つ実行して行けよと。そしてお客さんのない限りは必ず茶粥ぞと。それを三日の朝だけは皆さんに一碗ずつでも、そらニ碗でもかんまいませんけども、茶粥を頂いていくごとに。これなんかはお互いが私は、妙賀が尽きてはならないと言う事をです。自分の信心の上でも確かめ確かめ、信心を進めて行っておる積りですけれども。どこにお粗末御無礼があるか分かりません。
それこそどこに身のほどを知らぬような事になって、おかげを落とす事になるか分かりませんから、これだけは一つこういう時代も、合楽の時代にはあったんだと。早々の頃はそうだったんだと言う事をです。一つ認識して頂く為に分かってもらうために、これは信者家族の者は勿論でございますけれども。そこん所の気持ちで、茶粥というものは、合楽から切り離されない。それを皆さんに頂いて頂こうと言う訳だ。
そういう努力というものも、またなされなければならない。同時に今日私が申しました、神より上になると思うなと言う事は、ただ謙虚な慎み深い生活をしておると言う事だけではない。あなたの心の中に合楽教会大発展を祈る心が、親先生の愈々健康を祈る事がです、祈りの中に真剣にそれが祈られておるとするならです。貴方の言うておる事しておることは、それは人間的に傲慢に見えるかもしれない。あんなこっで良いだろうかと言う様な事になるかも知れない。
しかしこの事は真剣に、本当に祈らなければおられないで、祈っておる人ならばです。それは決して、神より上になると言う事ではない。慢心が出るとおかげを落とすと仰るが、これならば慢心は出らん。いうならば神様が喜んで頂く事を、一心に祈りそれに近付かせて頂こうと、精進しておると言う事です。ですから神様より上になるでんち言う事じゃないでしょうが。神様に喜んで頂けれる心。喜んで頂く信心。そういう信心を私は身に着けていくと言う事。
昨日お食事の時に、スープを嫁が作ってきておりました。この前作った時に大変それが美味しかったから、もう一遍あげんとば作ってくれと、私が言いましたから、昨日作ってくれておった。なんでもないただ卵を溶かして、おつゆにしたのです。ただそれに片栗でしょうかね、片栗のようなものをちょっと入れてあって、ショウガ汁ば落としてあるというだけのおつゆですけれども、それが実にその味が素晴らしい。私は味には大変やかましいほうですからそれが分かる。
これは普通の味じゃないこれは素晴らしい味だと。と申しましたら嫁が言うんです。まあだ娘時代にお母さんと一緒に、先日親先生が東京に行かれた時に、お父さんがてんぷら屋に連れて行ったと言う事ですけれども。あそこは東京一番の味の厳しいてんぷら屋さんでありますと。あちらにてんぷらを食べに行きました時に母と二人で。あのスープが出たんです。そしたらお母さんが「良子さんてこの味ば覚えときなさいよ。」と言うた。皆さんもご承知のように。
いわゆる味の上では伝統を持った。銀座の二葉と言うすし屋の娘ですから。又そこの女将ですからお母さんは。から味の事には非常に敏感なんです。また味にはやかましい厳しいわけです。それを「良子さんこの味を覚えて行け」と言うた。帰ってから三回ほど作りましただけで、まあだ本当の味じゃありませんけどもと申しましたけれども、成程そういう味だったのかと私は改めて思うた。それこそ見る事、見る事です。もう聞く事聞く事です。そしてそれを研究するんです。
手を取るようにして耳で食わすようにして教えてもです。それは本当のものになりません。自分がその気でおりますとです。例えば、歌舞伎役者なんかが、名人の芸を見たらです。は、あそこだっというところは、見て取ってくる訳です。そんなら私の信心をこうやって言うてもです、分からないと思うんです実は。そこでですやはり私の信心の、どこから今日のお月次祭に現れて来る様なです。無尽蔵に限りのない。これは金銭だけの事ではない。ものだけの事ではない。
一切のものが尽きぬおかげの頂けれる世界に、私が踏み込んでおるなというものを、皆さん感じて下さるだろう。そういうおかげの頂けれる信心を一つ、見習うて頂きたいというのです。ただお取次ぎを頂いてお願いをして、ただ金光様にお願いをしよるけん、あれが一つ成就した。商売は大体順調に行きよると言うてもです。それが本当に尽きぬおかげ。皆さんの信心がです。子供に自分の周辺の人達にです。自分の信心を見習うて行け、いや見習わなければ馬鹿らしいというほどしのものをです。
皆さんが身につけなさらなければいけません。はぁ家のお母さんがもう金光様、金光様ち言うて参るばってから、と言われるような事では出来ん。お母さん自体がやはりおかげを受けて、とにかく昨日でしたか富永さんが、小倉の(?)さんがお参りして見えて、母がもう生前いつも言うとった。私はいつ死ぬやら分からん。けれども私の信心のこれだけは、あんた達がしっかり受け止めておってくれんのとこう言うておった。信心しておるから、良かこつばっかりじゃ無いばい。
どういう都合の悪いことも、良い事もあるけれどもです。どういう場合であっても、神愛だからそこにお礼が言えれるような信心。ここだけは一つ受け継いでおってくれんのと、言うておった事を思い出させて頂いて、この頃信心もちょっとぐずついておりましたけれども、その事を思いださせて頂いたら、改めて元気が出たと言うてお届けをしておられます。子供なら子供にこれだけは見習うておけよと。
これだけは渡したいから、受け物を作ってくれよという信心をです。皆さんが続けてお出でられなければいけない。愈々明日明後日いうならば、残された二日間でもです。寒修行が、どう言う様な事すらも分からないでおって、合楽の信奉者とは可笑しい。遠い方なら一晩泊まってからでも、どういう信心修行が続けられておるかと言う位な、その雰囲気の中にあってです。
見てから聞いてからその感じの中から、ははぁ親先生の信心のこう言う所から、この尽きぬおかげが現れておるんだなぁというものを把握する信心を頂いて頂きたい。私は今晩もう直ぐ、只今から御本部へ発ちます家内と二人で。あちらの古川隼人先生あのお爺さん。亡くなられました。明日が告別式でございます。それでその告別式に出らせて頂くために、只今から出るわけでございますけれども。
明日の告別式を終わって、明日の晩にまた発ちますから、三日の修行の終わりに日には、おかげ頂く事になりますので、どうぞ一緒に本当に茶粥食を、どうでも一つ頂いて頂き難い人は、それこそ関さんじゃなかばってん、薬食ぶるち思うちから頂いて。ははぁこれが合楽の発展の元だと。ここを忘れなさらんことが、いやが上にもおかげが伸びておるんだと言った様な何物かをです。そこから把握して行って頂きたい。
また一月間なら一月間の、一生懸命のご修行をなさって、そこから生まれてくる体験を二三の方に語って頂くわけでございますから。その中からでも修行の尊いと言う事を一つ感得して。これからとても、信心に修行は付きものであるという信心。これは私の根本的姿勢です信心の。そこから尽きぬおかげに、触れて行けれる頂けれる受けものを作って頂きたいと思います。
金光様のお歌の中に「なすと言え、なしうる条件恩恵の、なくばなしえず何一つとして」というお歌があります。なそうと思うてもです。例えば百万円お供えしたいと思うたって、お金がなかなら出来んじゃないですか。お参りしたいと思うても健康という条件が無かったら、お参りできないでしょう。かと言うてさぁ条件な揃うとる、健康でもあるお金も幾らも持っとったっちゃです。それをまた思わなければご恩恵を受けなければ、それが思えんのです。
だからそういうおかげの頂けれる条件というものを、先ずは頂かせて貰うて、そこに受ける所の恩恵その恩恵こそがです素晴らしい事になってくる。受けものなしに頂いておるおかげはです。それはそん時限りのもんでしょう。尽きぬおかげ限りないおかげ無尽蔵のおかげには繋がっていかんです。どうぞ一つ無尽蔵のおかげの頂けれる信心を、一つ目指して頂きたい。それを合楽では合楽の私の信心から一つ体得して貰いたい。それこそ見て下さい聞いて下さい、そしてそれを真似にでも一つ実行してみて下さい。
ここだけは頂くばってん、ここは頂けんと言った様な事を言わずに、本気で一つ見る事、見る事それは親先生の信心を見る事に、修行のそれを賭けたと、末永先生が言っております。私は本当に口幅ったい事を言うようですけれどもです。現在の私の信心を皆さんが、本当に体得してくださると言う事がです。先ず金光様の信心を頂く前提なんです。金光様金光様と言うけれども、先ずは親先生の信心を一つ頂いて、そして金光様のご信心であります。
どうぞ。